地震計の針は飛び散った。家屋崩壊、列車の転覆、地盤沈下――“関東大震災”が起こった日

 東日本大震災の90年近く前、日本は大地震に襲われている。1923年9月1日、午前11時58分、関東地方を襲った地震は東京・中央気象台の観測室におかれていた地震計の針が1本残らず飛び散り、すべての地震計…

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生みの親・三島海雲 “国利民福”と“天行健”を提唱 「カルピス」100周年 アサヒ飲料岸上社長に聞く③

 ――おいしいこと
 ――滋養になること
 ――安心感のあること
 ――経済的であること

「カルピス」の生みの親である三島海雲が唱えた「カルピス」が持つこの4つの基本価値に立ち戻ってコミュニケーションを刷新した結果、「カルピス」ブランドは08年以降右肩上がりで拡大している。

アサヒ飲料の岸上克彦社長は「三島海雲が唱えた『カルピス』の基本価値をもう一度見直し、その時代に合った形でお客さまにきちんと訴求し続けてきたことが現在につながる成長の源泉になっている」と胸を張る。

2000年からの「カルピス」ブランド低迷期を脱したこの時の経験が、岸上社長のブランド観を現在のものへと肉付けしていく。アサヒ飲料では現在、“ブランドを磨き、ブランドで挑む”の指針の下、「三ツ矢サイダー」「十六茶」「ウィルキンソン」といった「カルピス」以外の主要ブランドでも基本価値を突き詰めている。

そのポイントについて「不易流行という言葉が当てはまると思うが、時代に迎合して基本価値を崩すようなことをしてはダメで、何も変わらずに長く続けているのもダメ。変えてはいけない基本価値と、その時代に合わせた変化の両面がブランドにとってものすごく大事なこと」と説明する。

三島海雲は、岸上社長が旧カルピス社に入社する1年半前の1974年12月に死去した。「実際に薫陶を受けたことはないが、社内は三島海雲イズムが徹底されていた。私も当然、三島海雲のことを調べてから入社試験に臨んだため私淑している者の一人だった」という。経営者として三島海雲から学ぶべきこととして、岸上社長はたくさんあるものの中から“国利民福”と“天行健”の2つを挙げる。

国利民福とは、三島海雲の人生観である“国利民福のために尽くさずしてなにものもなし”という私欲を忘れて公益に資する考え方で、関東大震災では、金庫のあり金をすべて拠出して「カルピス」の原液を水と氷で薄めて配り回った。

1963年から現在まで続いている「カルピス」ひなまつりプレゼントも国利民福の考えによるもの。次世代を担う子供たちの成長を願い、ひなまつりのお祝いで飲まれる白酒に代わるものとして、毎年、全国の幼稚園と保育園で「カルピス」を無償提供している。

1962年には、広野に撒かれた一粒の麦になりたいとの思いから全私財を投じて三島海雲記念財団を設立。同財団では毎年、自然科学と人文科学の研究助成を実施している。

「現在、アサヒ飲料が財務的価値と社会的価値を軸とした企業成長に取り組んでいるのは、三島海雲の教えではないのだが、どこかで三島海雲の考えにつながっているのかもしれない。アサヒ飲料も自社の利益のためだけに動いているということは全くないのだが、私は経営者として三島海雲の思いをもっと見習わないといけないし、もっと強く出していきたい」と述べる。

もう一つの“天行健”とは、蒲柳の質であったという三島海雲が健康を保つための生活で得た真理“天行健、君子自疆不息(天行は健なり、君子は自らつとめて息まず)”を意味する。

これは、天体が休まず運行しているように規則的に賢者は働くという意味の易経の言葉で、時間を守り、規則正しくさえしておれば、商売は繁盛し身体は健康になると三島海雲は解釈している。

三島海雲の具体的な健康管理は

①散歩
②日光浴
③養生

の3つで、この中で①については〈歩くということは腰を強くする。中国では、人間の生命は腰に宿っているというくらいである。腰の力が弱ったら、もう人間はだめである〉(ダイヤモンド社刊「初恋五十年」)と書かれている。

アサヒ飲料では、社員自らも社会も健康になることを目指す全社プロジェクト「アサヒ飲料健康チャレンジ!」を実施し、岸上社長も率先して取り組んでいると聞く。

「人の上に立つ者は、規則正しい生活を送り、自ら健康になり規則正しいリズムで会社を運営しなければならない。このことが全くできていない私としては、国利民福とともに学ばなければならないと常々思っている」と気を引き締める。(つづく)…

生みの親・三島海雲 “国利民福”と“天行健”を提唱 「カルピス」100周年 アサヒ飲料岸上社長に聞く③食品新聞社で公開された投稿です。

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『情事の終り』(新潮社) – 著者: グレアム・グリーン – 鴻巣 友季子による書評

『情事の終り』(新潮社) 著者:グレアム・グリーン

創作行為への愛と憎しみの疑似告白録

グレアム・グリーンの代表作の鮮明な新訳が刊行された。有名な古典作の周りには、その本を遠い昔に読んだ読者のおぼろげな記憶と、まだ読んでいない読者の漠然としたイメージが浮遊している。『情事の終り』でもなんとなく知られているのは、これがある人妻と独身の語り手の不倫関係の回想記であること、彼女の愛した「第三の存在」はこの世のものではなかったこと、ここまでではないか?

作家で語り手のベンドリックスは小説の取材のために政府高官に近づき、彼の妻サラと恋におちて何年か密会を続けるが、その関係はロンドン空襲のある晩、突然終わりを告げる。それから一年半後に再会があり、語り手はサラに新しい男の影を感じて探偵を雇う。同時にふたりの関係も再燃しかけるが……。

最初に書くと、『情事の終り』はすっかり情事が終わってからがまた抜群におもしろい。もちろん、世知辛く生々しい情事の記述も、ふたりが再会した後の追跡ドラマ(探偵劇の中心人物なのにコミック・リリーフに近いドジ探偵が傑作)も、惹きつけてやまない。しかし彼らが愛したサラの盗みだされた日記が第三部で開示され、第四部で彼女が舞台から退場した後にも、物語はまだまだスリリングに続くのだった。何が書かれるかといえば、遺された男性たちの右往左往である。ここにテーマの核心が鏤(ちりば)められている。

男たちとは、語り手のベンドリックスとサラの謹厳実直な夫。そして、サラが一時期、精神的に頼った合理主義で無神論者。そして、カトリックに改宗しようとしたサラの話を聞いていた神父。誰が一番サラのことを解っていたのか。彼らはサラと宗教をめぐってぶつかりあい、それぞれに信念のゆらぎを経験する。しまいに語り手とサラの夫がこんな関係になり、無神論者がこんな言葉を口にするとは、グリーン一流の痛烈な皮肉。

本作はグリーンには珍しい自伝的小説で、語り手は作者の分身的存在とのこと。これは「憎しみの記録」だと序盤に書かれているが、いろいろな意味での告白録でもあろう。ある女性に対する愛と憎しみはもちろん、神に対する愛と憎しみ。それだけではない。作者自身の創作行為への愛と憎しみの疑似告白録としても読める点が、再読で目を引いた。所々で自分の創作流儀を明かしているようでもある。

土砂降りの夜に公園を歩くヘンリーの姿を想起して始まる冒頭シーンは見事だ。しかし物語は作者が気まぐれに「選んだ」シーンから始まるのではなく、「イメージのほうが私を選んだのではないのか?」と語り手(グリーン)は書く。また、小説を書いていると「座り込んだかのように動こうと」しない登場人物たちがいると愚痴ったりする。そして神にしてみれば、自分たち普通の人間はこういう「詩心も自由意志もない登場人物」と同じでないかと呟く。創作において造り手である彼は、神の登場人物のひとりになることを恐れているのだ。しかし神を信じ愛するとは、そういうことだろう。「(神を愛すれば)僕は仕事も失うだろう。ベンドリックスではなくなるのだよ、サラ。僕はそれが怖い」。

彼にとって「第三の存在」の露見が衝撃だったのは、恋人を奪った相手が神だったからだけでなく、それが己の創造的自我を脅かすものであったからではないか。人間という小さき創造主の、神という大きな創造主への抵抗。堂々巡りを繰り返す戦い。原題はThe End of the Affairという。情事は終わっても、神との「こと」に終わりはない。(上岡伸雄訳)
【初出メディア】
毎日新聞 2014年5月18日
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