【防災の日】について知ろう!歴史や由来、イベント情報や防災セットまで

今回は、防災の日の由来やイベント情報、知っておきたい防災対策についてご紹介します。

■防災の日とは?
防災の日について基本的な情報を見ていきましょう。・防災の日ってどんなことをするの?

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防災の日は、台風や地震、豪雨、豪雪などの災害に対する意識を高め、災害についての準備や心構えを行う日として制定されました。
防災の日の前後である8月、9月は統計上台風が最も多い季節。この面からも、防災について考えるのにはいい時期だといえますね。

・防災の日っていつ?

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防災の日は、毎年9月1日に設定されています。なぜ9月1日なのでしょう…

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【防災の日】震災遺構「たろう観光ホテル」を訪ねる / 大津波に襲われた町はいま

東日本大震災から9年。揺れによる被害だけでなく、連日のようにテレビで放映された大津波の映像が記憶に残る方も多いだろう。撮影者の目の前ですべてが流されていく衝撃的な映像が今もYouTubeなどに残る。

岩手県、宮城県の沿岸部には、防災教育のために被災した建造物を残す「震災遺構(しんさいいこう)」が点在している。つらい記憶を呼び起こす震災遺構は、末永く残すべき、いや早く撤去すべきと意見が割れることも多いが、岩手県宮古市の田老地区では後世に残す道を選んだ。

予約すれば個人でも防災ガイドの案内で見学できる。日本人なら1度は訪れるべき場所だと思うので、9月1日の「防災の日」にあたり詳細をレポートしたい。

・津波遺構「たろう観光ホテル」

ガイドの内容は後述するが、まずは津波遺構「たろう観光ホテル」を見ていただきたい。家々が押し流され、更地のようになった市街地にぽつんと残ったそのビルを、きっとテレビなどで見たことがあるだろう。

「たろう観光ホテル」は三陸の海を望む、地上6階建ての白亜の観光旅館だった。2011年3月11日の津波で半壊したものの、上層階が無事に残り「津波遺構」として保存整備。宮古観光文化交流協会「学ぶ防災」ガイド(4000円)に申し込むと内部見学もできる。

外から見ると1階、2階は壁ごと流され、3階はかろうじて壁は残るものの、窓ガラスがなくなっているのがわかる。

もとはロビーや大浴場があった1階中央に、水圧でひしゃげたエレベーターが見える。外壁や内壁、建具、家具などはすべて流され、ここに部屋があったとは思えない、がらんとした空間が広がっている。

波の力で位置が大幅にずれてしまった階段。

天井がないのは、ボイラー室などの構造物にぶつかって反対側へ抜けられなかった波が、上方に向かって2階の床をぶち抜いたためだという。

補強修復された、かつての非常階段を上っていく。

宴会場などがあった2階部分。津波は4階まで到達したが、骨組みがしっかりしていた一方で外壁の素材が柔らかく、波が反対側に突き抜けたことで倒壊を免れた。現在でも安全に入館できる堅牢さを保っている。

無事に残った建物内部に入る。足を踏み入れると、ホテル時代そのままの廊下が伸びる。両側に客室が並び、「営業中のホテルです」といわれても疑わないだろう。

これまで見てきた、何十年も昔の遺跡のような1〜2階部分とのギャップに驚く。ちょっと非現実的な「大災害で被害を受けた場所」と「人が普通に暮らしていた場所」とが、一気につながるような感覚だ。

なお、地震が起こったのは14時46分。宿泊客のチェックイン時刻の前であり、この場所での犠牲者はいない。

今にも動き出しそうなエレベーター。しかし先に1階部分で見たように、階下では骨組みが残るだけだ。ボタンを押しても昇ってくるカゴはない。

客室も当時のままである。「たろう観光ホテル」社長は当日、津波発生の報を受けてホテル最上階に避難し、そこからビデオカメラを回した。

「学ぶ防災」ガイドでは6階の客室……社長が撮影したまさにその場所で津波映像(報道機関には未公開)を視聴する。録音された社長の声もそのままに、鬼気迫る映像だ。

当時、テレビでは報道機関が撮影した津波映像や、視聴者提供の映像が繰り返し流された。ある意味では見慣れてしまった構図かもしれない。しかし、実際に撮影した場所で、目の前の風景と比べながら見る映像は、まったくの別物である。あまりの臨場感に胸が詰まりそうになる。

・逃げていたら助かった命

壊滅的な被害を受けた田老地区だが、防災に無頓着だったわけではない。むしろ逆だ。宮古市合併前の「田老町」時代から、先進的な「防災の町」だった。

歴史的にたびたび大津波に襲われてきた当地では、町の至るところから最短距離で山に行けるよう避難道が張りめぐらされ、夜でも街灯で照らされる。「万里の長城」と呼ばれた防潮堤も国内外から視察が訪れるほど有名だった。

よそ者の筆者からすれば「そんなに危険なら引っ越せば?」と簡単に思ってしまうが、田老は古くからの漁師町。自宅の隣に作業小屋があり、いざ津波となれば船を外海に逃がす「沖出し」が容易な「職住近接」の町だった。今も海岸近くには作業小屋が連なる。

住民の意識も高く、町の防災訓練日(3月3日)からまもなく起きた東日本大震災では訓練が活きた。保育園では、日頃からシミュレーションしていた園長先生の英断で、人の集まる中学校へ避難。

さらに中学校に集まった人たちも、津波の到来を察してすぐに裏手の山への移動を開始。体力のある中学生たちが保育園児を抱えて逃げようとしたが、斜面では上手くいかず、バケツリレーのように園児を運んだのだという。

それでもなお180人余りの死者・行方不明者が出た。職務の最中に犠牲になった人もいるが、多くは「避難せず自宅に留まった」人だという。

防潮堤への過信があったことや、「津波の高さは3m」と過小評価された事前情報(実際には最高17m以上)があったこと。また、避難所へ行くと迷惑がかかる、自宅を離れたくないなどの理由で避難を拒んだ人や、1度は避難したのに荷物を取りに戻って被害にあわれた人もいる。

ガイド中は繰り返し「津波は避難できる災害」「防潮堤は逃げる時間をかせぐもの」「逃げる意志がなければ、どんな対策をしても助からない」と教わった。

当地では「津波てんでんこ(=てんでんバラバラに逃げろ)」という言葉が伝わるが、災害時には自分の命は自分で守らなければいけない、他人にも荷物にも構わず、家に戻ってもいけない……そんな教訓が含まれている。それは他人を見捨てろという意味ではなく、各自が自分の安全に責任をもつということである。

案内してくださる防災ガイドの中には家族を失った人もおり、まさに当事者である。その当事者の「逃げていたら助かっていた命」という言葉が重く響いた。

・住民の心の回復

広くはない町内でも、山沿いに家があり、ぎりぎりで被災を免れた地域がある。一方で、家、財産、家族すべてを失った地域がある。家を失った住民は高台の造成地に集団移転をし、消防署や診療所などの公共施設も移設された。もと住んでいた土地がよく見える場所だそうだ。

地震直後、被災の程度の異なる住民が同じ避難所で過ごすつらさもあったという。その後も再建計画への意見の相違、あるいは新しい土地の取得にまつわる不平等感、巨大な新防潮堤への賛否など、住民の心を分断する出来事がたくさん起きた。

新しい造成地と、古くからの住宅街の中間地点にあるのが「道の駅たろう」と「キット、サクラサク野球場」だ。イベントなど町の中心になり、子どもの声が響く場所でもある。「上からも下からも(=新市街からも旧市街からも)集まれる場所」として、これからもたくさんのイベントを開催していきたいという。「田老はこれからです」という言葉が印象的だった。

巨額の費用をかけて「なぜ野球場」という声もあったというが、2つの市街から子どもが集まる場所であることが筆者には象徴的に感じられる。両者の壁をなくすのは、一緒に育つ次世代の子どもたちではないだろうか。

・戻る人、戻らない人

全国で大規模災害が相次ぎ工事が遅れているものの、新しい防潮堤の建設が今も進んでいる。海が見えなくなるほどの巨大建造物には賛否あるようだが、印象深い話があった。

津波の怖さの1つに、押し寄せた波が海に戻る「引き波」があるという。時速100km以上で迫る第1波も怖いが、その波が戻るエネルギーで、家屋や人や車が一瞬にして外海にさらわれた。一方で、防潮堤に守られた家屋はバラバラのがれきになりながらも、壁にぶつかって残った。そのため、ご遺体や、遺品を探し出すことができたのである。

ガイド中「戻る」「戻らない」という言葉が印象的だったが(ご遺体が見つからない人に、「亡くなった」という言葉を決して使わなかった)、田老地区では40余名の行方不明者がいる。前述の野球場も、子どもの元気な声が響く場所ではあるが、災害を想起させることから今でも試合開始のサイレンを鳴らさないのだそうだ。

すべての人が同じ意見ではないと思うが、防潮堤は津波を防ぐというよりも「逃げる時間をかせぐため」のもの。そして「大事な人を見つける役割」という話がとても印象に残った。ニュースでは報じられない一面だ。

・町全体が博物館

田老地区は小さな集落である。古い防潮堤の上に立つとすべてが一望できる。たとえば津波に襲われた旧防潮堤と、建設中の巨大な新防潮堤。被災を免れた古い住宅地と、高台の新しい住宅地。津波遺構「たろう観光ホテル」と、再建した「渚亭たろう庵」……対照的な2つのものが同時に視界に入る稀有(けう)な町だ。

冒頭の「たろう観光ホテル」は、2015年から町を見下ろす高台で「渚亭たろう庵」として営業再開している。客室数を13室に減らし、全室露天風呂つきの落ち着いた高級旅館である。漁師町らしく、三陸の魚介をふんだんに使った創作料理も素晴らしい。

一方で、被災した「たろう観光ホテル」を後世に残したいという社長の強い意志があったのだそうだ。

「学ぶ防災」ガイドの目的は、町全体を博物館として「避難の大切さ」を伝えることだという。このような場所は世界でも珍しいのではないだろうか。

・多くの人に参加して欲しい

ガイド中は、他にもたくさんのことを教わった。車をすぐ発進できる方向に向けて駐車すること、素早くはけるよう靴を揃えておくこと、道路の見通しをよくする「すみきり」、ホイッスルや携帯ライトを持ち歩くこと(実際にガイドさんも首から下げていた)……すべて被災したときのためだ。

実をいうと、筆者は数年来なんども震災遺構を訪ねようとしながら、近隣まできてUターンすることを繰り返してきた。

付近を車で走ったことがあればおわかりだろうが、どこを見ても真新しい道路に「復興道路」「復興トンネル」「浸水ここから」などの看板ばかりで、傷跡も生々しく、とても観光客気分ではいられないのだ。しかし今回「学ぶ防災」ガイドに参加して考えが180度変わった。

甚大な被害があった土地でありながら、人が暮らし、子どもたちが育ち、生活が営まれているという当たり前の事実。その姿は頼もしく、人間の強さを知るようでもある。「大変なことがあった、手を触れてはいけない場所」と「自分が暮らす場所」が地続きでつながったような感覚が生まれたのだ。

コロナ禍が落ち着いたら、ぜひ多くの人に訪ねて欲しいと思っている。なお、ガイド中にうかがった話をなるべく正確に書き起こしたつもりだが、もし誤りがあればすべて筆者の責任であることを申し添える。

参考リンク:宮古観光文化交流協会渚亭たろう庵
Report:冨樫さや
Photo:RocketNews24.

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